循環者の
姿を可視化する
「循環型社会」という言葉がありますよね。
それは一体、何を意味しているのでしょう。
二〇〇〇年に公布された日本の法律「循環型社会形成推進基本法」の内容をごく簡単に要約すると、循環型社会とは製品などがゴミになることが抑制され、資源の再利用が進み、環境への負荷が低減された社会であるとされています。
しかし「循環」という言葉をもう少し広く捉えると、肉体における血液やリンパ液の流れ、あるいは食物連鎖や死骸の分解による種を越えた依存関係のような、生命の繋がりの側面が見えてきます。さらに「社会」という言葉も併せて考えれば、モノの流通だけでなく、多様な個々人の間の会話や働きかけ、アイデアの伝播や再解釈といった、尽きせぬ応答の豊かさも視野に入ってくるはずです。
資源の再利用、生命の繋がり、そして尽きせぬ応答。
そんな循環型社会の中で否応なく生きている我々自身のことを、あえて「人間」ではなく、「循環する有機体」、縮めて「循環者」と呼んでみるのはどうでしょう。
たとえば、最も基本的な生活条件である水を切り口に、循環者の最小限のあり方を考えてみます。我々が生理的に必要とする水分量は、一人一日あたり一・五から二リットル程度。古来、生活排水は自然の水循環(河川、海、気象)に委ねれば再生可能な少量であり、水の分配や使用を巡る利害調整は農村などのローカルな単位で行われていました。
しかし現在、我々は農工業用水も含めて一人一日あたり一五〇〇リットル近くもの水を使用します。淡水資源の枯渇や、大量の排水による環境汚染が明らかになり、その危機は異なる立場の間で分断と対立を生じさせています。
資源の再利用を地球のシステムに任せたまま膨張した循環者は、自分自身の姿を上手く捉えることもできなくなり、その結果として生命の繋がりや尽きせぬ応答といった側面も含めて機能不全に陥りつつある。それは、あまりにもどかしいことではないでしょうか。
私たちATOWは、資源問題に関するリサーチ集団です。
私たちはデータやファクトを問いとして反射し、循環者の現状と将来像を少しずつ浮かび上がらせる、小さな手鏡のような存在になりたいと考えています。
それは一体、何を意味しているのでしょう。
二〇〇〇年に公布された日本の法律「循環型社会形成推進基本法」の内容をごく簡単に要約すると、循環型社会とは製品などがゴミになることが抑制され、資源の再利用が進み、環境への負荷が低減された社会であるとされています。
しかし「循環」という言葉をもう少し広く捉えると、肉体における血液やリンパ液の流れ、あるいは食物連鎖や死骸の分解による種を越えた依存関係のような、生命の繋がりの側面が見えてきます。さらに「社会」という言葉も併せて考えれば、モノの流通だけでなく、多様な個々人の間の会話や働きかけ、アイデアの伝播や再解釈といった、尽きせぬ応答の豊かさも視野に入ってくるはずです。
資源の再利用、生命の繋がり、そして尽きせぬ応答。
そんな循環型社会の中で否応なく生きている我々自身のことを、あえて「人間」ではなく、「循環する有機体」、縮めて「循環者」と呼んでみるのはどうでしょう。
たとえば、最も基本的な生活条件である水を切り口に、循環者の最小限のあり方を考えてみます。我々が生理的に必要とする水分量は、一人一日あたり一・五から二リットル程度。古来、生活排水は自然の水循環(河川、海、気象)に委ねれば再生可能な少量であり、水の分配や使用を巡る利害調整は農村などのローカルな単位で行われていました。
しかし現在、我々は農工業用水も含めて一人一日あたり一五〇〇リットル近くもの水を使用します。淡水資源の枯渇や、大量の排水による環境汚染が明らかになり、その危機は異なる立場の間で分断と対立を生じさせています。
資源の再利用を地球のシステムに任せたまま膨張した循環者は、自分自身の姿を上手く捉えることもできなくなり、その結果として生命の繋がりや尽きせぬ応答といった側面も含めて機能不全に陥りつつある。それは、あまりにもどかしいことではないでしょうか。
私たちATOWは、資源問題に関するリサーチ集団です。
私たちはデータやファクトを問いとして反射し、循環者の現状と将来像を少しずつ浮かび上がらせる、小さな手鏡のような存在になりたいと考えています。